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あさ、すでに橋の上で体調の不良をかんじて、プログラム全部を遂行するのあきらめて、とちゅうでかえってきましたが、ちょっとねつあります、どうかんがえても。こうなってくると、川井氏からの、退場勧告が出る前に、自主退場が近いと思います。これかきおわったら、せんたくもんほして、くすりのんで、ねんねのくにです、どうかんがえても。だもんで、本題のがいこつの世界観を、つづけたいところなのですが、省略して歌とアコーディオンシリーズいきます。
さすがは、たしろ氏、いつもの事ながら、考察が、実に論理的で、やくざのpくんとは、つきとすっぽんだけども、
笑星さんのいう(曲には、音だけでも、相当のメッセージがあるのだ)
まさにこれは、同感のpくんですが、ということで、p君流の、なんもわからんとやってる、 ユーのに、かすかなひかりがみえてきます。なーんちゃって。
つまり、音楽は音だ、あたりまえだが、おとそのものにとりあえず音楽がある。となると、なんぼオリジナルの単語レベルまで調べてその言葉を発するときの気持ちを意識しながら演奏しようとしても、意味や、気持ちが、わかるということは、かならずしも、出てくる音そのものを物理的にわかることとはちがう。つまり言葉の意味と、その言葉の音の、因果関係をさぐる、つまり、ことばの意味と、発音とはちがう。しかし、音楽は音だ。音そのものに注目した要するに、曲でうたわれる、うたそのものが、意味抜きにして音だけなにがなんでもまねっこしてやろうとする、歌詞の意味を知らないp君流のやくざな音楽演奏も、それなりの、いいめんは、あるのではないか?
もちろんどう考えても、母国語の歌やる方が、有利な条件にあることはまちがいないけど、逆にそしたらあなたは、母国語の歌アコーディオンでやる時、もちろん、いみは、わかる、 しかし、発音の特徴や、音程の変化などなどに、ちゅうもくしてひいてるんか?となると、じっさいには、意味分かってるのに、その曲になってケーへん演奏もいっぱいある。アコーディオンにかぎらへんけど。
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