BacK Number 357


鳴る色

 投稿者:川井 浩  投稿日:2010年 1月17日(日)09時18分26秒
  ローマとはいえ、冬は寒いでしょう。それも、橋の上の吹きさらしでは。さすがのP探偵も冬の吹きさらしの橋の上では張り込みは難しいでしょう。 お大事にお休みください。
ところで、「音楽は音だ」という笑星さんの言葉をしっかりととらえたP探偵の触角が鋭い。 その言葉に僕もある意味で衝撃を受けました。 言葉というものは人類が火を手にした時と同じぐらい他の生物とは異なる道を歩み始めた画期的なToolではあり、そして、昨今のInternetやYou Tubeが人類にとってかつての「火」や「言葉」に匹敵するほどのToolであると思われる。その間に、人類はさまざまなTool、すなわち「道具」を生み出しては、生存のためのより快適な条件を手に入れてきた。 それは石器であり、土器であり、鉄であり、火薬であり、毒であり、ダイナマイトであり、原子爆弾であり、自動車、電話、テレックス、と枚挙にいとまがない。 ただ、翻って考えてみればそれらは人類の感性と切り離しては考えられないものの、良く考えれば、当たり前のことだが、道具であり、手段であることに気がつく。しかし、鳥は歌い、蝶は舞い、イルカは鳴き、ふんころがしは子供のために一生懸命逆立ちして後ろ足で糞を転がす。 一家団欒で糞を囲む、ことまでは想像したくないが、言葉なき生物たちはこの緑の星の上で生を謳歌し、愛し合い、歌を歌い、まどろむ。 そして、その生を次の世代に引き継ぐことで個としての役割を終え、死を迎える。 人間とてもこのすべての生き物と基本的に同じ生を生きているわけで、我々は言葉のために生きているわけでもなく、メロディーのために生きているわけではない。 光、色、音、味、手触り、肌触り、などという五感とそれらから派生する原始的なあるいは根源的な感情そのものを表現する手段として言葉や、音や、色や、その他の道具や表現方法があるのだろうと考えるとき、音の持つ意味合いが見えてくるような気がする。
ここで強引に私ごとですが、1月8日から1月31日まで銀座の資生堂ギャラリーで開催されている曽谷朝絵さんによるインスタレーションアート「鳴る色」(入場無料)をぜひご覧ください。 彼女の制作にわずかばかりの支援をさせていただいたので、ここで宣伝させていただきます。 これは普通は書いた絵などを展示する画廊のスペース自体をアートにしてしまった作品です。 曽谷朝絵さんの説明によると、彼女の頭の中には常に音が色彩を帯びて、あるいは色が音を帯びてこだましていて、何らかの作品を制作するときはそれらの音、ないし色を取り出して作品にしていたが、今回はその状態そのものを表現したかったとの説明がありました。 その言葉を聞いたときに、人の頭の中に描かれ、表現しようとしているものは時として、言葉で、時として音楽で、時として態度で、時として内面へ、表現され、攻撃し、また、影響を受けるものであるのか、という考えに至りました。 彼女が表現しようとしたものは言葉を使わず、音も使わず、色と形で表現しようとしているのです。 でも、彼女はさまざまな音を表現したいのです。 音を表現する。 人は「火」を使う前からも、「言葉」を持つ前からも人であったと思うのです。 ましてや人は車やお金、ファミコンやテレビを持つ前から人であった。
で、昔良く歌っていた歌の歌詞が出てこないのは寄る年波のせいながら、なぜかメロディーは覚えていることがある。 で、それをアコで弾いてはいい気分になる。 で、その時聴いた歌を聴いている気分を思い出すこともあり、今の気分を表現できる時もある。 音、侮れない。

http://www.shiseido.co.jp/gallery/current/html/index.htm

MAGIC FINGERS   C.Camilleri
http://www.youtube.com/watch?v=jZfQjZECcMA&feature=related
 

ちょっともんだいあります。

 投稿者:  投稿日:2010年 1月17日(日)01時31分27秒
  あさ、すでに橋の上で体調の不良をかんじて、プログラム全部を遂行するのあきらめて、とちゅうでかえってきましたが、ちょっとねつあります、どうかんがえても。こうなってくると、川井氏からの、退場勧告が出る前に、自主退場が近いと思います。これかきおわったら、せんたくもんほして、くすりのんで、ねんねのくにです、どうかんがえても。だもんで、本題のがいこつの世界観を、つづけたいところなのですが、省略して歌とアコーディオンシリーズいきます。

さすがは、たしろ氏、いつもの事ながら、考察が、実に論理的で、やくざのpくんとは、つきとすっぽんだけども、

笑星さんのいう(曲には、音だけでも、相当のメッセージがあるのだ)

まさにこれは、同感のpくんですが、ということで、p君流の、なんもわからんとやってる、
ユーのに、かすかなひかりがみえてきます。なーんちゃって。

つまり、音楽は音だ、あたりまえだが、おとそのものにとりあえず音楽がある。となると、なんぼオリジナルの単語レベルまで調べてその言葉を発するときの気持ちを意識しながら演奏しようとしても、意味や、気持ちが、わかるということは、かならずしも、出てくる音そのものを物理的にわかることとはちがう。つまり言葉の意味と、その言葉の音の、因果関係をさぐる、つまり、ことばの意味と、発音とはちがう。しかし、音楽は音だ。音そのものに注目した要するに、曲でうたわれる、うたそのものが、意味抜きにして音だけなにがなんでもまねっこしてやろうとする、歌詞の意味を知らないp君流のやくざな音楽演奏も、それなりの、いいめんは、あるのではないか?

もちろんどう考えても、母国語の歌やる方が、有利な条件にあることはまちがいないけど、逆にそしたらあなたは、母国語の歌アコーディオンでやる時、もちろん、いみは、わかる、
しかし、発音の特徴や、音程の変化などなどに、ちゅうもくしてひいてるんか?となると、じっさいには、意味分かってるのに、その曲になってケーへん演奏もいっぱいある。アコーディオンにかぎらへんけど。
 

メロディか、詞か

 投稿者:笑星  投稿日:2010年 1月16日(土)21時43分46秒
   いや〜、皆様、素晴らしい。民族舞踊の動画サイトの豊富さにも驚きましたが、なんといっても、スケルトンダンスというジャンルがあることにビックリ! P探偵だけではなかったのですねぇ。
 ちなみに私のやっていたイスラエルダンスは、あのサイトの3.4.5ページ目くらいに出てきた、揃いの衣装を着けた若い男女のピョンピョン飛び跳ねてる、みたいなのです。最初の方の、ちょっと中年の方々のは、いわゆる省エネスタイルで、楽に長く踊れます。それでも、小太りのおっちゃんのステップは素敵ですよね。
 で、メロディが先か、歌詞が先か。そして言葉の意味がわかってんのか???との命題ですが。
 P探偵のいわれる「うたもん」でも、最初は、耳で聴いて、いいなぁと思って、弾いてみたりする。そして、そのうち、言葉の意味も知りたくなるのでは。私としては、好きな歌は、何て歌ってるのか、ちょこっとでも知りたいほうです。
 P探偵が、細かい歌の音程の動き、発声の仕方にとてもこだわると、言われるのには、そこに大きな意味が含まれてくるのだと思います。それって、結局、言葉を追求してるのと、そう違わないように感じるのです。
 ヨーロッパの言葉はどこか共通するものもありますよね。イスラエルのヘブライ語はセム語系なのでまた違いますが。
 唱歌の「椰子の実」は、島崎藤村の詞だったと思いますが、「名も知らぬ 遠き島より 流れよる 椰子の実ひとつ」とても日本語にそった美しいメロディですね。良く知りませんが、これは言葉が先だったのだろうなぁと、想像してます。
 メロディに言葉を載せる難しさ。それを実は今、経験しております。美しい音楽を作る友人がいまして、そのひとつがあまりに素敵だったので、ついうっかり、歌詞をつけたいと、言ってしまいました。表題のある曲で、彼の中にも明らかなイメージがあると思い、お互いに確認したところ、私の中に浮かんだイメージととても近いことが判明しました。それで今、四苦八苦してるとこですが…。
 曲には、音だけでも、相当のメッセージがあるのだということに、あらためて思いを深くしているところです。
 

歌詞のあるメロディをどう演奏するか

 投稿者:たしろ  投稿日:2010年 1月16日(土)15時15分52秒
  結局「群○(差別用語)象を撫でる」式のコメントしかできないと思いますが、思いついたことを書きます。

直接は関係ありませんが、先ず思い出したことは、器楽曲の「標題音楽」でした。
作品番号だけで分類される「絶対音楽」に対して作曲者自らが名付けたり、後世の人たちが名付けたりした曲など、曲の内容を暗示するような「表題」がついた曲のことです。
「運命」、「月光の曲」、「悲愴」、「1812年序曲」、「魔法使いの弟子」、「青く美しきドナウ」・・・などなど枚挙にいとまがありません。
そして演奏者や聴衆は、この表題に縛られながら演奏したり聞いたりします。

当然の事ながら歌詞のついた曲は、その理解のレベルや好き嫌いは別にしても、演奏者も聴衆も歌詞に縛られます。

ここで面白いのは、歌詞のある曲について「メロディーが先か詞が先か」という議論が依然としてあることです。シンガーソングライターのように何でも自分でやってしまう場合はどちらかに妥協しながら進めていくことで問題にはならないでしょうが、作曲者は他人の詞からインスピレーションを受けて曲を書いていくのが普通かと思います。しかし、いざ、モチーフが出来上がるとその発展で曲をまとめようとするでしょうから100%詞に沿って曲を書くわけにはいかなくなるでしょう。このため、当然表現できない部分や意識や感情にずれが生ずる部分も必然的に含むことになるでしょう。これは、演奏者や聴衆が歌詞の意味に機械的に捕われすぎることの無意味さにもつながるように思いますが、詞を持つ曲にはこのような矛盾を本質的にはらむ可能性があるためか、作詞と作曲が分業の場合にこういう議論が起こることがあるのも興味深いことです。(ただし、大作曲家といわれる人たちの作品にはそのような矛盾が殆ど感じられないのも事実なので、これは本当に感心させられます。)

さて、外国で書かれた歌詞のある曲をどう弾くかというのが今回のPくんの投げかけたテーマです。以上書いたように、当然演奏者が言葉の制約のもとで表現することが求められると思いますので、「歌詞の意味を知らなかった」ではきっと曲の魅力が半減してしまうのではないかと思われます。

外国の曲に対して例を挙げる力はありませんが、自分が遊びで取り組んだ幾つかのアリア「闘牛士の歌(カルメン)」や「カタログの歌(ドン・ジョバンニ)」などでは当然オリジナルの単語レベルまで調べてその言葉を発するときの気持ちを意識しながら歌いましたし、アコで一昨年取り組んだフォーレの「夢の後に」では、フォーレが歌曲として書いた事が明かなので、もともとどのような言葉が当てられ、それはどのような意味であるのかを調べて言葉を意識しながらメロディを弾きました。また、その前年に取り組んだエルガーの「愛の挨拶」では結局自分なりにストーリーを作って、それをイメージしながら演奏しました。

このように考えてみると、歌の意味を日本語に置き換えて新たな作詞を用意しても、フレーズのレベルではオリジナルの感情とは全く異なる日本語が当てられたのではきっと歌にならないように思います。このことは重要なことで、いつの頃からか二期会で上演されるオペラなどでも結局原語での演奏になっているように思いますが、きっとそのような事情からではないかと勝手に推測していますが如何でしょう。

あはは、これらは結局敬愛するPくんへの反論のようですね。

それにしても、上記のテーマとは関係ありませんが、日本人は義務教育の過程でしっかり英語を教わっているのに、今や世界で最も英語が下手な国民として知られているようですが、音が耳から入る順序に従って外国語を学んでこなかったツケがこのような形に表れているのではないかと思われてなりません。
 

スケルトン

 投稿者:川井 浩  投稿日:2010年 1月16日(土)08時21分0秒
  スケルトン=skeleton=骸骨! ZENさんの発想の飛躍に座布団一枚! 大阪城を望む大阪ビジネスパーク駅にあるHotel New Ohtaniの広いロビーでエレガントな曲を演奏しているのがKAWAIの無人演奏ピアノで、スケルトンでした。 うちもKAWAiのアコーディオンとかいえばもっと買ってくれる人が...増えませんね。 ピアノで有名なKAWAIの祖先とうちの祖先は遠い親戚で、どれぐらい前に祖先だったかというと石器時代ぐらいだと思われます。

「歌詞、歌の意味、わかって演奏できるか?」とのお命題を拝借して思うところ多々あり、書こうとおもったら、作曲法というお命題をいただいてしまったので、頭蓋骨の中が混乱してしまいました。 あ〜、たしろさんみたいに書いちゃいそう。 さっきまでは第一番目のお命題、 「歌詞、歌の意味、わかって演奏できるか?」の部分で「言語とメロディー」、「曲の主題とメロディー」、この場合のメロディーというのは旋律だけでは無く、リズムや和音や楽器の組み合わせなども含めての音楽のことを言っているのですが、あ、そこで、自分の中で、別の命題が発生してしまった、「言語」と「曲の主題」ということなるモチーフだ。 そこに、作曲法という命題が加わり、「言語にとらわれない曲の主題」という新たなテーマが出現した。 言語に基づく音楽はその言語を共有する人たちにとっては理解しやすく、メロディーラインに沿って歌詞を歌うことも不自然さが無く、坂本九がGIブルースを歌った時のような違和感が無い。 東海林太郎が赤城の子守唄を歌えば違和感が無い。 ただ、群馬県高崎市や前橋市の人たちはいくらクラシックの素養が一般的に高いとはいえ、シューベルトの魔王を日本語で歌われても、言語のドイツ語で歌われても、よほどドイツ文化や言語に親しんだ人でないとそれを市民共通の感動レベルで味わく事が難しいように、ウィーンの森のはずれのホイリゲで人かに密会する若い、あるいは熟年の恋人たちに突然、東海林太郎の赤城の子守唄を聞かせても、それも十分に歴史的背景や演劇的な意味合いを教えても、群馬県高崎市の人々のスムースな受け入れ方とは異なると思われる。 長ったらしい説明ですみません。 言語のもつリズム、歴史的、環境的共有体験に縛られた音楽はその地域文化歴史をわからないと味わい方に差が生まれる。 その代わり、その地域文化歴史を共有する人には説明不要の親しみを感じさせる。 アメリカの一部でオクトーバーフェストなどで革のハンズボンをはいて踊るドイツ系移民や、シカゴのピザ屋が集まって歌うナポリの民謡など、これはイタリア系移民の共通の故郷を持つ人たちの喜びだ。
そういった地域文化歴史を越えて、それらにむしろとらわれない音楽を作りだすと、音楽が国境、文化、歴史を越えていく。 P探偵の発言で本日ゆすぶられてしまったのはその点です。 世界に広がる音楽はどこか普遍性がある。 バッハ、モーツァルト、ベートーベン、カルーソー、エルビス、ビートルズ、マイケル・ジャクソン、そしてSlavko Avsenik、あ、かなりの飛躍がありますが、過去の物を無視するのではなく、それに縛られずに、むしろそれを土台にして乗り越えて、新しいものを創造する。 そこには言葉や歌詞にとらわれない音楽がある、ととらえるか、その言葉や歌詞が力を持ち続ける、と考えるか、またまた堂々巡りを始めた私。 で、朝ごはん食べてきます。
 

スケルトン

 投稿者:ZEN  投稿日:2010年 1月16日(土)07時37分47秒
  どこかのメーカーで透明なボディで中身の見えるスケルトン仕様のアコーデオンを作ってくれないかなあ?
とくに左手のメカが見えると仕組みがよくわかっておもしろいと思うのです
 

がいこつは、ディスコダンスもできる!

 投稿者:  投稿日:2010年 1月16日(土)05時19分45秒
  退場宣言まじかですが、ひつこく、かきつずけます。
もちろん本題はがいこつですが
なぜがいこつかというと、pくんにとってがいこつは,死の象徴ではなく、生きることの、根源であるからです。

歌詞、歌の意味、わかって演奏してぇんのか?
わかってないじぶんとしては、
いまここではっきしゆーて、わからんでも演奏できる!!
と、いいたい。すくなくとも、ぼくのばあい30ねんくらいまえまでは、曲にかんして、歌詞は、どうでも良かった、という、自分の現実があります。

これは、多分、今までの自分の暴言の中でも、最暴のぶるいかもしれへんけど、

おそらく、自分がそうだから、きっとほかもそうだとおもうんですが、
おそらく、曲作る人ゆーのは、根本的に、音程の動きだけに注目して、
歌詞は、わりと、どーでもええ、ゆーことです。

逆に歌詞の意味わかっとったら、より良い演奏になるか?

歌を、アコーディオンで演奏するばあい、ぼくは、さきほどもかいたように、こまかいうたの、音程の動き、発声の仕方に、すっごく注目します。
それは、多分、僕思うに、歌の、意味わからんでも、曲を、理解することに、ちかいんとちゃうかなあ?と、おもいます。
あるいは、僕は、曲構成のしかたや、川井氏のことばでゆう、おかず、とかに、非常に注目します。
 

マイム マイム

 投稿者:208236  投稿日:2010年 1月15日(金)22時24分38秒
  笑星様から教えて頂くまで、僕はマイム マイムがイスラエルのフォークダンスだと言うことを知りませんでした。このタイトルは聖書の中に出てくる言葉なんですね。なんで、この曲が日本で流行したのかが気になりました。貴重な情報ありがとうございました。
ご存じかも知れませんが、イスラエルのフォークダンス好きな笑星様好みのサイトがあります。
★ イスラエル民族舞踊研究会
http://folkdance.seesaa.net/category/3091456-1.html

川井様好みはこちらでしょうか。
★ スイス民族舞踊研究会
http://folkdance.seesaa.net/category/3119046-1.html
★ ドイツ民族舞踊研究会
http://folkdance.seesaa.net/category/3112763-1.html

P探偵さんは、やっぱり、これだと思います。
★ がいこつ民族舞踊研究会
http://folkdance.seesaa.net/category/3716838-1.html

で、またまた、僕が横道にそらしてしまったので、P探偵の予題
「歌詞、歌の意味、わかって演奏してぇんのか?」について
ご意見のある方は投稿お願いします m(。・_・。)m
 

これで、ほんとに退場かもしらん。

 投稿者:  投稿日:2010年 1月15日(金)04時52分10秒
  かわいこちゃんか、そうでないかは、当掲示板では、川井のおっちゃんではなく、p探偵が、決定するので、かってな、かわいこちゃんじゃない宣言は、ひかえてください、、、なーんちゃって。ちなみにp君は、完璧なんはきらいです。ちおょっとへんてこ性のある、どこかま違ったようなかおだちが、すっごくひかれます。


というわけで、、聴かせどころのメロディを左手じぁあなくて、、聴かせどころのメロディのちょっとてまえが、ひだりてなんです、ぼくのばあい。こうすることで、聞かせどころの前に、アクセントが付いて、その後いっそう、右手でやる聞かせどころが、目立つ、というわけです。ちなみに何度も書きましたが、p探偵は右利き。聞かせどころは右でないと、ひょうげんがおいつきません。

というわけで、本題がおわったから、これから予題にいきます。もちろん本題は最初のかわいこちゃんに関する項目だけですが。

マイムマイムが、荒野で救いの泉(井戸)を見出した喜びの歌で、聖書のイザヤ書の言葉なんだ、と分かったところで、さてあなたは、歌もんをアコーディオン演奏するとき、言葉、歌詞、歌の意味、わかって演奏してぇんのか??????????????もちろん、歌詞の意味捕らえて、演奏するにこしたことはない。

歌が日本語ならまあ、日本人のpくんは、それ、やりやすい。しかし、他の国の言葉なら?
そして例えば実際にドイツのアイドル専門にやってるpくんは、そのうたのいみほんまにわかってんのか?うたのいみわかってえんそうしてんのか?

うそといつわりだらけでいつ民事裁判にもちこまれてもおかしくないp君は、ここで、ほんとのこというと、いつも、なんにも、歌詞の意味分からんと、演奏してるのであります。

たとえば、歌手志望で、音楽大学入った人なら、例えばイタリア歌曲やるんやったら、普通は、イタリア語おぼえるでしょう。ドイツ歌曲やったら、どいつもこいつもドイツ語理解しようとする。

そこで、演奏だけもくてきにしてるもんにとったら、そういうの、ばんそうするにしても、あんまり、かんけいないかもしらんけど、やっぱり歌の意味わかっといたほうがええ。

しかし、アコーディオンで歌もんやろうとするなら、やっぱし、歌の意味わかってなあかんかもしれへん。

さて、何にも、言葉わかれへんp君が、いったいどうやって、アコーディオン演奏にこぎつけてるか?


なんにもわからんけど、ぼくはいつも、各国の言葉の、発音と、その発音がゆえの、おとので出し、おわりかた、などなどに起こる、言葉のとくちょうと、それから起こる、音程の変化を、もっのすごく、なんどもなんどもきいておんなじようにひけるよう、練習します。
 

左手いのち

 投稿者:笑星  投稿日:2010年 1月14日(木)07時07分28秒
   かわいこちゃんじゃないのですが、あしからず。
 P探偵の華麗なアルペジオやスケールに目を奪われがちでしたが、やはりアコーディオンは蛇腹。そして、聴かせどころのメロディを左手でというのは、「うーん、そうか!」で、今すぐできるわけではありませんが、ひそかに練習しよっと。
 きっとこれ読んだ多くの人が、今夜から秘密練習に入るのでは。
 フォークとタンスで、もうオチがついたところを申し訳ありませんが少し寄り道。私は若い頃から、イスラエルのフォークダンスが好きです。皆さんご存知のマイムマイムは、イスラエルのもので、直訳すれば「水、水」です。荒野で救いの泉(井戸)を見出した喜びの歌で、聖書のイザヤ書の言葉です。
 イスラエルのフォークダンスは、現イスラエル国の建国当初の開拓労働にともなうものが多く、躍動的で、マジ、踊るとヤセるくらいのエネルギー消費します。マイムマイムもほんとにやると、息は切れ、足はつり、やせること間違いなしです。でも当然、省エネスタイルもあるわけで、私なども最近はそれを取り入れないととてもやれませんが。
 ステップは、帰還者の多かった東ヨーロッパのものや、イエメンのものなどが取り入れられてて、おもしろいですよ。
 すみません、またアコーディオンに、どなたか、戻してください。