BacK Number 337


意外に多い外人のくせに日本音楽ファン

 投稿者:  投稿日:2009年10月22日(木)03時35分53秒
  という、川井氏の、ことばで、おもいだしたけど、
イタリアにもイタリア人の尺八奏者が、おるんですわ。!
ここで、何回かまえにかいた、五線紙に書かれた、西洋音楽と、言う、p君の発言は、大きな、間違いやった、と、いわんといかんです。もうしわけございませんでした。ある時突然p君に連絡とってきたそのイタリア人の尺八奏者の、なまえは、おぼえてないんですが、多分僕の記憶ではMUSICOTHERAPYという、これ、日本語でゆえば音楽療法なんですが、そういう、イタリア人の作ってるサイトがあって、そのサイトでその、イタリア人の尺八奏者の演奏が紹介されているはずです。残念ながら、彼は、ローマとちがうんで、一緒に演奏する機会なく、いまにいたってるけど、要するに彼は、漢字で書かれた日本の古典譜面見て、えんそうするわけではもちろんなく、五線紙に書きなおされたもんみるわけですよ。
つまり五線紙というもんは、ただたんに、音の動きがだれにでもわかりやすいように、インターナショナル化されたもんであって、五線紙に書かれたからとゆーて、決して、日本音楽では無い、のではない、と考えるのが、本筋だと思います。

つまり、今も、日本の古典的なものから変化し続けてきた日本の音楽の心がありフランク永井の歌も、もちろんそうだし、滝廉太郎の曲もそうだし、西洋音楽をとりいれたのちの日本音楽の歴史と重みはそれなりにふかい。

ちなみに、世界平和のための国際連合も、ぼくのしるかぎりでは、テーマ曲があって、それは、ロベルトシュトルツのつくった国連マーチだったようにおもいます。
マーチは間違いなく、まーちがいなく(しつこい?)人の心をゆさぶる。
という、川井氏の、ことばは、まんざらまちがってない。
マーチは、戦いではなく、人間の生きることにたいする勇気だ。
 

ファッションしまむら,サンキ

 投稿者:p探偵  投稿日:2009年10月21日(水)21時10分53秒
  それって裁縫道具やさんですか?
その手の、専門道具やさんは、ローマにはごくすくないけど、
その代わり、どんなジャンルでも、修理やさんは、めちゃくちゃおおいからたすかります。
家具の修理、ソファーの修理、ステレオ修理、服の修繕、かばんの修理。などなど。
なんせ、いまでも、わりと
ラジカセとか、つかってますからねえ。カセットですよ。

ソフトケースのばあい、背中の後ろで
あるくたんびに、けっこう重量あるもんがどすんどすんとくるから、
僕も、せおってスクーターなんで、いつきれるか?とおもうと、とってもふあんなのですが、僕の経験では裁縫道具やさんで買う、糸より、釣り糸使ったほうが、丈夫に縫うことできます。*もちろんぼくもじぶんでぬったことなくて、やってもらってるだけですが。
 

意外に多い外人のくせに日本音楽ファン

 投稿者:川井 浩  投稿日:2009年10月21日(水)20時03分8秒
  昨年ドイツのフランクフルトの見本市からマイン側沿いのワイン村へ宿泊のため乗ったタクシーに流れていたのが、たしか中島美幸だったかユーミンの歌、だったか、記憶は不確かながら日本の女性歌手の歌。 タクシードライバーはトルコ系ドイツ人。 日本のこのCDを聴くと涙がでるといっていた。
今年8月に成田からパリに向かうフライトで隣に座った若いフランス人のイケメンの男性、日本での仕事の合間の里帰り、Lyon出身の彼の一番好きな歌手はフランク永井。 【有楽町で逢いましょう】を見事に完唱。 カラオケではフランク永井の歌を歌いまくるらしい。

ところで、最近の私の心情は: マーチ。
行進曲 旧友 (合唱)/ Alte Kameraden "Chorus", German army marching song. + Lyrics.
http://www.youtube.com/watch?v=FigvxKG7ngg&feature=related
Preussens Gloria
http://www.youtube.com/watch?v=d_D1mYBBHgM&feature=related
Hoch Heidecksburg!
http://www.youtube.com/watch?v=ppJ-C5FBgWw
Gruss an Kiel
http://www.youtube.com/watch?v=qfAZ7jFqZDo&feature=related

これらをアコーディオンで弾こうというものです。 マーチにはなぜか人の心を動かす強い要素が含まれているようで、私などは感動で鳥肌が立ってしまうのです。 とかくマーチは、であるがゆえに、戦争の道具として駆り出され、人々はマーチを聴くと逆の意味で鳥肌が立ってしまう場合があります。 とくにドイツのマーチなどは近隣諸国はまったく聴きたくないということも多いようです。 でも、上記のHoch Heidecksburgを演奏しているのはオランダの楽隊であり、旧友Alte Kameradenは1922年作曲ということはHitlerのナチが権力を握るるよりずっと前の曲。 日本のいわゆる軍艦マーチでさえ、第二次世界大戦と関係のないところで作曲されている。 今では名曲といわれるHoch Heidecksburgなどは当時は軍隊から拒否されて、作曲者は軍を去り、ジャズバンドに身を置いたとされるものです。 マーチは間違いなく、まーちがいなく(しつこい?)人の心をゆさぶる。 このゆさぶるがすごい。 むねをゆさぶる。 あ、こころをゆさぶる。 で、これらをワインでも飲みながら、ビールでも飲みながら、ご自身でアコで元気よく、男に生まれてきて良かった、っつーか、この国の行く末を憂いつつ、弾くっつーのはいかがでしょうか? 今の国難に際して、君は何ができるのか、指導者には何を求めるのか、かつて人々は尊厳のために戦った、というイメージを持ち、それを理想像としつつも、現実的に何に向かって戦うのか、自分はいったい何なのか、こんなに美しいマーチと理不尽な死と向き合った人々の気持ちをどうくみ上げればいいのか、歴史上の間違いをどのように勉強したらいいのか、マーチを弾けば、今日は眠れないはずだ。 しかたがありません。
 

Softbag 修理

 投稿者:川井 浩  投稿日:2009年10月21日(水)19時27分41秒
  お近くにバッグやベルトの下請けなどをしている工業用ミシンをお持ちのところがあればそんなところに頼むとそうとう頑丈に縫い付けてくれます。 ご自身で修理なさる場合はファッションしまむらやサンキなのでナイロン製の糸をご購入いただき、太針で縫い付ける面積を多めにして縫い付ければ治るはずです。 ご器用なかたならご自身でお直しできると思いますが、自身のないかたは奥様をたまにはおいしいレストランにご招待の後、ホテルのバーでカクテルなどをごちそうして、夜は頑張っておやさしくしてさしあげて、翌朝、頼めばやってくれますって! アコーディオンベルト修理専門学校というものはありませんし、そうなりたい若人も少ない昨今、だれかさんの貴重な時間を割いて修理を頼む場合は時給3000円から5000円ぐらいをEngineering Feeと考えると、修理費用は小一万かかるかな? 修理のための分析と判断に基づき部材を手当てし、修理の構想を練り、実際の作業にかかる時間はおそらく最低でも2時間から3時間はかかるし、もし、必要なものを買いに行くなどの手間がかかれば5−6時間はとられる。 自分で直せば糸代だけ、奥様に頼めばもうちょっとかかりますが、失った接点を取り戻すチャンスという場合を考慮すれば、以外に元が取れる可能性あり。 ベルトの修理は自分で治すか、奥様とのよりをもどすチャンスととらえるかは個人の置かれた立場と考え方によるので断定は不可能。 第三者に依頼する場合は小一万から場合によってはもうちょっと? で、治っても中古の修理品? で、\29,800.-をだせば、akkordeon.jpでイタリア製高級ソフトバッグの新品が買える! これこそ我田引水、唯我独尊、こんなセールストークにはのってはいけません。  

ソフトバック修理出来ますか?

 投稿者:きたの  投稿日:2009年10月21日(水)11時03分18秒
  アコーディオン用ソフトバックのリュックタイプですが、右側ベルトがバッグ本体から千切れてしまって左側ベルトだけで背負っていますが、何処か修理できるところはありますか?ご存知の方いらっしゃいましたらお教えください。バッグは「HOHNER」製41鍵120ベース用です。  

問題発言はつづくよ。

 投稿者:  投稿日:2009年10月21日(水)04時04分24秒
  ほいじぁあアコーディオンは、日本ではどういうふうなれきしがあるのか?
というより、本質的に西洋音楽は日本で、どのような、演歌、じゃなくって、変化をとげていったのか?

明治時代になって、五線紙で、曲が、書かれるようになったじてんで、もうこれは、西洋音楽だ。
しかしながら、五線紙で書かれた譜面によって、日本語の歌が付き始めたわけですよねえ。

たとえばですが、ぼく、個人的に、とやまゆうぞう(漢字でどうかくかわすれたかけません)という人の、音楽だいすきです。オーケストラ曲ですが、どれもこれも、日本の曲です。

演歌にアコーディオンが、欠かせぬ存在になり、
歌伴奏の、楽器になり、喉自慢の伴奏になった。
あるいは、帰国兵士の楽器になった。

おおむね、日本のアコーディオン界は、それなりに、他のくにとまたちがった、あたらしい、アコーディオンの歴史が、はじまっているわけですよねえ。

言葉というのは、とっても重要なもんで、音楽そのもの、メロディそのものが、日本語を使うことによって、西洋音楽が、日本のものとして、どんどんかわっていって、
日本には、今の、日本の流行音楽の歴史があり、アコーディオンも、それなりに、それについていった、。と、ぼくはおもいます。

ぼくはね、アコーディオンでやることが、レトロファッションだけであってほしくないです。だから、新しいことやろうと試みるアコーディオンの演奏は、だいすきです。
しかしざんねんながら、アコーディオンで新しいことやろうとするひとたちにかぎって、いままであるもん、ぜんぜんしらんで、しかも、低い音楽性でただ単に、今までと違うことやろうとしてるだけのひとが、おおいとおもいます。日本にかぎったはなしじゃあないですよ。簡単に結えば、今までと、なんか、目先の変わったことやる、道具の一つとして、アコーディオン使ってるに過ぎない、。というか、そういえば、もうすこしわかりやすいでしょうか?

暴言つづきかもしれないですが、(、たしろさんみたいな、フォローしてくれるひともいますが)ぼくとしては、なにゆーてんねんあほんだらー!みたいな、論争をみんなで、していくほうが、すきです。

世の中には、やっぱり、p君のように、私生活でたらめであったとしても、ピッツァには、命かけてるひともおるわけで、そういうひとらにとって
伝統的なもんなーんもしらんとちがうことやろうとするもんには、ものすごい嫌悪感が、あるとはおもいます。アコーディオンに限らずですよ、もちろん。(ちなみにpくんはそうではないです)

ただ、音楽は、けっきょくのところ、嗜好品であって、個人個人の、かんかくを、否定は出来ない。

たとえばのはなしですが、
ぼくのしってるかぎり、
イタリア人で、岩崎宏美の、歌の、大ファン
というのもいてるんですよ、ほんとに。
 

ほいじぁあ

 投稿者:  投稿日:2009年10月20日(火)01時25分33秒
  歴史の、まだあさい、アコーディオンこそ、
、「小さな変革を積み重ねる取り組み」
が、とってもだいじなことかもそれないですねえ、。
 

「創造的な取り組みを忌避する風潮」という表現について

 投稿者:たしろ  投稿日:2009年10月19日(月)01時17分11秒
  >「創造的な取り組みを忌避する風潮」が、日本の古典音楽世界にあるのと、同様に、西洋には、「創造的な取り組みを忌避する風潮」が、あり、さらに、これは、にほんにとったら、アコーディオンふくめ、西洋音楽は、昔からあった伝統音楽じゃあないけど、西洋にとったら、伝統音楽やから、むしろ、「創造的な取り組みを忌避する風潮」は、日本の、西洋音楽やる世界より、西洋の方が、はるかに、つよいもんがあるのはまちがいないとおもいます。

これは、確かに仰るとおりですね。そして、さらに「創造的」という言葉を「独創的」と置き換えれば全くその通りだと思いますし、良く理解できます。
しかし、僕が使った意味は、どちらかと言えば自由で持続的な変革意識/意欲によってもたらされるもので、「小さな変革を積み重ねる取り組み」と言い換えた方がニュアンスが少し近いように思いますので「創造的」というのはややオーバーな感じはつきまといます。

また、いわゆる「○○流」に限るまでもなく、「教育」という側面や「堕落や変質を避ける」という側面から見ると、自由で持続的な変革は望ましくないとして忌避されるべきものと裏腹でもありますだけにこれは確かに難しい問題です。

ところでアコーディオンは、歴史が短いと言ってもあっという間に世界に広がってそれぞれの土地の音楽と結びついて恰も昔から有った民族楽器のように変化して行った点に着目すると、そこには小さな変化の積み重ねが有ってこそここまで変化したと言っても良いのではないでしょうか。そして、現在もなお変化しつつあると言いますから、我々自身もその中に身を置いていると考えると愉快です。

なお、先のコメントで書きました「アンドレ・ペパン氏」ですが、吉田雅夫氏の弟子のフルート奏者がスイスで師事した先生のお名前でした。僕の記憶のどちらかで入れ違ってしまったらしい。吉田雅夫氏は、訪欧当時チューリッヒでアンドレ・ジョネ氏に約1ヶ月、その後ウィーンでハンス・レツニチェック氏に学んでとのことですので、この何れかの師匠に指摘されたお話だったようです。訂正しておきます。記憶違いで失礼しました。
 

敬愛するマイスターP君だなんて!

 投稿者:pくん  投稿日:2009年10月17日(土)04時15分18秒
  マイスターだったらいいんだけど、実際には、チップスターか、ベビースターラーメンなもんで、たいがいのことでは、はずかしがらないpですが、これは、どう考えても、言葉と真実のギャップがおおきすぎて、はずかしいです。

「創造的な取り組みを忌避する風潮」が、日本の古典音楽世界にあるのと、同様に、西洋には、「創造的な取り組みを忌避する風潮」が、あり、さらに、これは、
にほんにとったら、アコーディオンふくめ、西洋音楽は、昔からあった伝統音楽じゃあないけど、西洋にとったら、伝統音楽やから、むしろ、「創造的な取り組みを忌避する風潮」は、日本の、西洋音楽やる世界より、西洋の方が、はるかに、つよいもんがあるのはまちがいないとおもいます。

ここで、ちょっと、問題なんが、川井氏がよくゆーてる、隠れキリシタン、みたいな、アコーディオンという楽器が、西洋音楽の歴史的に、非常に、中途半端な時期に誕生して、さらに、いまなお、新しいテクノロジーを、なかなか使う予算も、情熱もなかなかむつかしい状態で、進歩し続けている楽器だ、という点があるとおもうのですが、
つまり、世界を代表するみえさんが、クラシックアコーディオン と、タイトルするのにたいして、実際には、アコーディオンそのものの誕生の因果が、また、別の面にあるかもしれないがために、クラシックアコーディオンでは無い、アコーディオンもまた、正当なアコーディオン演奏であったりするわけだと思うんですが、

つまりここは、今の、日本は、圧倒的に西洋音楽が、はびこっているけど、どうしてもこれは、日本の、むかーしからあった音楽のすたいるとはちがうんで、【○○流】、あるいは、そうとちがう「創造的な取り組みを忌避する風潮」は、はるかに、日本より、つよい、と、いいたいわけです。

かんたんにゆーと、新しいもんは、なっかなか、うけいれへんわけです。
これはね、逆に、ここではね、ほんとに今までと違う独創的なもん、聞く耳持ってる、ユー事なんだと、僕は、断言します。
だから、ほんとに今までと違う独創的なもんは、やはり、高い評価受けて、世の中に出る。それで、さらに、ところが、高い評価があっても、それは、金銭的なせいこうにつながるもんとちがうからこんどは、アメリカでうりだす。 これが、いまの定石だとおもいます。

たとえばですが、すくなくともぼくのしってっるかぎりでは、ローマでは、公立の小中学校では、音楽の授業はないです。
だから、専門的にやりたい子、(専門的にやらせたい親)は、もう、はじめから、学校とは別に、そういう、音楽関係の教室にいったり、いかせたりするわけです。
音楽家ゆーのは、ここでは、きっと、日本よりはるかに、特殊な、分野なわけです。

日本はね、西洋音楽ユーのが、それにくらべて、あんまりにも一般化してて、結局、極端なはなし、西洋音楽が、ごく一般教養の、一部になってしもてるんではないかと、ぼくは、おもいます。それは、つまり、だれでもが、ちょっとのことなら、音楽理解できて
つまりそれは、ほんとの、真実の、音楽の歴史、新しい感覚の独創性ある音楽を、しらずして、かんたんに音楽の世界にはいっていける、けど、真実を追求しにくくさせていると、p君の意見ですよ!ぼくは、おもいます。それはわるいことではないかもしらんけど、

自分思うに、はっきしゆーて、それが証拠に、日本では、どんだけ、どっかにすでにあるのを、まねした音楽が、新しいオリジナルなもん、だとなのって、うりだされているか!!!

こんなえーかげんなpくんですが、すくなくともそういう、いんちきうそまるだし、独創的は、すぐわかるし、そんなん、きいててきもちわるい。

アンドレ・ペパン氏というのは、ざんねんながらぼくしらんけど、とにかくその吉田雅夫氏というのもざんねんながらしらんけど、
とにかくそのアンドレ・ペパン氏は、吉田雅夫氏が、その、吉田雅夫氏そのもののオリジナルな、自分の表現できることを、その第一音で、さとったから「一体お前は笛で何を表現したいのだ?」という、発言になったのではないでしょうか?

もちろんアコーディオンに関してもそうだけど(もちろん、ぼくの、おもうところですよ)
日本のアコーディオンの、オリジナルゆーのは、あんまりにも、どっかにすでにあるもんのまねごとにすぎへん。(いよいよpくんの暴言コーナーですが)

まずねえ、まずはしまりのはじまりに、やっぱし、今までに、すでに存在する、西洋音楽を、いっぱい、よくきいて、それを模倣できるようになることが、とりあえずだいじなことやと、ぼくは、おもいます。「どうすればそのような表現が技術的に可能なのか」「それを実現するためのテクニックを身につけるための基礎技術の積み重ねはどのようにあるべきなのか、という、たしろさんのかんがえかたが、ぼくは、はっきし、ぜったいそうであるべきだ!と、いいます。

つまり、もっとかんたんにゆえば、過去のもんよーしらんとかってにええかげんなことして、オリジナル気取りすんなよワーレー、、ということです。
 

師の陰を踏まず

 投稿者:たしろ  投稿日:2009年10月16日(金)11時07分8秒
  敬愛するマイスターP君から次のようなコメントを頂きました。
>さらになんのこっちゃわからんようになってきました。
【師の陰を踏まず】という師弟関係が創造的な取り組みを忌避する風潮につながるというわけなんですか?なんかよーわからへん。

まぁ、表現が適切ではないかも知れませんが、例えばこういう事があります。

伝統音楽の分野で【○○流】というカンバンを出している師範に教えを請うたところ、息継ぎはもとより細かいテクニックに至るまで正確な模倣を要求し、一切の変更を許さないという話を聞いたことがあります。そして、その流派では驚くべき事にいわゆる教祖によって文書化され、レコードによって具現化された奥義に対して現在でも一切の変更を許さないと言うのです。要すれば、そこでの発展や反映は、新しい時代に適応していくための進化ではなく、門下生の数や関連事業の規模の増大のみが価値を決定する要素のようなのです。

このことを評して「創造的な取り組みを忌避する風潮」と書きましたが、伝統文化の世界では今でも何処でもこれに近いことが起こっており、西洋音楽などの新しい分野でも多かれ少なかれこのような体質や指導法の影響を受けてきたのではないかと思われます。

NHK交響楽団の前身時代から主席フルート奏者を長く続け、日本の音楽界が世界に開かれる上で多くの影響をもたらされた吉田雅夫氏の話をFM実験放送の頃(おー、それはかれこれ50年近くも昔のことですが)聞いたことが有りますが、彼がかつてスイスでアンドレ・ペパン氏の門を叩いたとき、吹いてみろと言われて演奏した曲のどれもが有名プレイヤーの演奏から学んだものであったことから「お前のアイデンティティは何なのだ?」、「一体お前は笛で何を表現したいのだ?」と厳しく叱咤され、なにもかも忘れて滅茶苦茶に吹いたら「それで良いのだ」と初めて褒められたという話でした。

この話は、戦後の復興期にあった日本の一流プレイヤーが目指していた「世界のトップに追いつこう」と模倣に終始していたことに対して出鼻をくじくものであり、創造的に取り組む事への大きな啓発だったと思いますが、当時独習でフルートを吹いていた僕にとっても目から鱗のお話でした。

3年前からアコーディオンの個人教室に通っていますが、先生に付いて学ぶのはこれが初めてという僕の音楽人生の中での関心事項は「どうすればそのような表現が技術的に可能なのか」「それを実現するためのテクニックを身につけるための基礎技術の積み重ねはどのようにあるべきなのか」「【加齢】に伴う体力や反射神経の低下をどのような工夫で避けつつ技術の向上に結びつけるべきか」などです。

若い先生にとっては教え難くヘンクツな生徒だと思いますが、このような問題意識で僕は学んでいます。このような色々なトライが学習者それぞれの立場をベースに展開されることで、日本のアコ界も多様な形で広がっていくのではないでしょうか。そう、僕の言いたいことは【師の陰を踏みながら進んで行こう!】です。結局演奏で音を出すのは自分なのですし、先生はそのための援助を惜しみなくして下さっているという理解です。