BacK Number 335


バックミラー

 投稿者:たしろ  投稿日:2009年10月10日(土)08時41分7秒
  車から外した大型のルームミラーが有ったので、ちょいとこれを縦置きにしてやってみました。そしたら、何のことはない「ピアノ鍵の低音側が上、高音の右側は下」というキー配列で実は何の不都合も感じていなかった(単に90度展開しただけという感覚の)ものが、手の動きを鏡を通じて見た途端、「高い音が下にある」という事への違和感が凄くてどうにもなりません。良い子は絶対に真似をしてはいけませんよ。(苦笑)  

こころに響く言葉s

 投稿者:たしろ  投稿日:2009年10月10日(土)08時06分9秒
  ・「アコーディォンは楽器としては未熟でマイナー、一番ミスし易い楽器だ」
 (カブトガニさんの引用による長内 端氏の言葉 10月9日)

 −この言葉からの連想:
 ヴァイオリンやチェロなど、形や大きさの分数系列など完成された体系があるし、極端な跳躍以外は確かにミスタッチも少ない。(フレットが無いので多少のずれはヴィブラートをかけながら瞬時に修正も可能)
 フルートやトランペットなどの管楽器にミスタッチは殆ど皆無。(ホルンなど高次倍音系列から音を選び出す楽器の職人技は例外的)

 −翻って
 PCのキーボードのブラインドタッチは、年々ミスが増えるように思うが、これは一体何なのだろう?
 ここにもう一つ加齢に伴う指関節の柔軟性喪失という問題も有るのではないかと疑いを深めている今日この頃である。

 アコの場合、手首、腕、肩など動員している関節も多いし、見えないキーやボタンを的確に押さえるために、何か適切な対策は無いものだろうか?
 いっそのこと、せめて右手だけでもバックミラーを付けたいところ。誰かやった人いますか?

>人前で、楽器ならして音出す、ゆーことはね、やっぱし、ひとつひとつの音に、責任あるんですよ。規則におーてたら、それでええというのが音楽ではない。
 (ピッツァ博士の言葉から 10月10日)
 

日伊文化のちがい

 投稿者:ピッツァ評論家p  投稿日:2009年10月10日(土)03時49分33秒
  とつぜん、人類民族哲学博士になっちゃった川井氏が、日独文化のちがい かきはじめるまえに、いや、日独ビールのちがい、かきはじめるまえに、文化となると、ちょっとpくんには、むつかしすぎてわからんから、ただたんに日伊のちがい、かきます。

日伊何が根本的に違うか?
それはね、イタリアの方が、ピッツァとパスタがおいしいことです。

なーんちゃって。

この前日本いったでしょ、ほんなら、ほんとのこというと、ちょっと、いきぐるしいとおもったんが、なんか、日本は規則というか、きまりごとがおおすぎて。。
イタリアは、日本みたいなことないから、やっぱり、日本に比べて、人間の粗悪なめんが、ものすごくめだつけど、そのぶん、一人一人が、自分で考えて、自分の行動に責任持って何でも出来る、ユー違いがあるかもしれへんとはおもいました。
言い方かれば、日本は、最初から、ものすごいっぱいきまりごとがあって、さらに、そのきまりごとさえまもっとけば、きょうもあしたもOK.というか、つまり、ここでは、きまりごとすくない(あるいは少なくはないかも知らんけど、それを、監視はされてない)かわりに、自分の行動一つ一つに、なんでも責任持ってやらなあかんことは、おおいとおもいます。
この、ちがいというのは、たとえばだけど、イタリアは、どう考えても、日本に比べて集団結束力にかけると思います。あんまりにもそれぞれが、ちがう、考え方、違う行動をそれがただしいと各々思ってそうしたがるからだと思います。

アコーディオンにかんしてゆーなら
川井氏のいうような、グループの長の推奨や口利きで決められたブランドのアコを購入しなかったものへの情け容赦ない嫌味やシカト。それは極端とはおもうけど、ぼくとしては、やっぱり、もちろんブランドに限らず、楽器は、ほんとに初心者であればあるほど、たかもんつかわんことには、上達は難しいと思うのです。実際、どんなブランドであっても、やすもんせいひんは、それなりで、どんなブランドでもたかもん製品はぜんぜんちがうから。
そーゆーことを、やっぱり、本人の演奏でもって、つたえることができる指導者であることが、音楽で、弟子持ってるひとには、ひつようなのかもしれない。

人前で、楽器ならして音出す、ゆーことはね、やっぱし、ひとつひとつの音に、責任あるんですよ。規則におーてたら、それでええというのが音楽ではない。
 

Positiveな表現

 投稿者:川井 浩  投稿日:2009年10月 9日(金)18時49分0秒
  熟考をせぬままキーボードをたたいてしまったので、自分でも結局ネガティブな表現になってしまったように感じて反省しています。 間違うことを恐れない勇気を持つこと、他人の間違った箇所に気がついてもむしろそのチャレンジする姿に感動できるやさしさを持つこと、そんな自己改革がアコ上達の道なのかもしれないと感じています。 アコ演奏は人間形成の場ともいえるのでないか。 アコ演奏がだんだんとうまくなって、自分も他人をも幸せにできて、なおかつ自身の人間性が高まる。 アコは人間解放の有効なツールであり、単なるツール以上の素晴らしい友人だ。 アコ演奏=幸せ という方程式になるような生き方をしよう。  

日米文化の違い 

 投稿者:川井 浩  投稿日:2009年10月 9日(金)18時33分47秒
  ちょっと日本を離れて演奏上のミスに関するご投稿を拝読するうちに、いつも心にかかっている日本と米国の文化の違いを思い出しました。 同時にこれは日本人が抱かされている、あるいは脱却できない、「打ち首の恐怖」を思わざるを得ないのです。 永く続いた封建主義、士工農商のカースト制度にも似た上下関係、それらに基づく事なかれ主義、間違いを起こさないための無為、今の役人の行動パターンを見るまでもなく、われわれ日本人が抱いてしまった、あるいは抱かされてしまった長いものには巻かれろの敗北者思想。 日本人は第二次世界大戦で大敗して自尊心を失ってしまったのではなくて、もともと自尊心のか弱い、自立独立していない、未熟さがむしろ命を救う、個人の尊厳の確立していない極めて不幸な文化の海にいまだにどっぷりと浸かっており、その地獄の血の海にも似た情けない状況からいまだに抜け出せないでいるように思えてしかたがありません。 間違いを恐れるその恐怖心は、お侍さんの通り過ぎるところを、頭をどろの地面にこすりつけて震えて待つ農民の恐怖心に似ているように見えます。 アコの偉い先生の前で行う練習や発表会はまるで死刑執行か無罪放免かの判決を待つ戦犯扱いの哀れな徴用兵のごとくです。 それではアコ演奏が楽しいわけもなく、聴いているほうも手に汗を握ってしまいます。 まして、演奏している人は、その上に笑顔まで要求されるとしたら、首をおとされる前に笑えと強要されているようなものです。 なぜ、われわれは間違いを犯すことにこれほどおびえなければならないのでしょうか。 間違いを犯すことをカウントする減点法が原則のNIPPON。 たとえ、何のとりえもないように思えるヤツでも、脚がはやい、歌がうまい、声が大きい、背が低い、あらゆる特性をプラスにカウントするアメリカ。 New Orleansの街をいけば、身なりはシンプルでも、お金はあまりなさそうに見えてもゆったりと自分のテンポで歩き、暮らす人の姿に気づく。 追われるがごとくに急いで歩き、叱られまいと何かを根性で頑張ろうとする、そんなタイプの生き方とは違うテンポがある。 大自然の中で、大自然の法則に逆らわずに心の平静を保って生きようとする東南アジア訪問の人々の心にも似たものがあるのかも知れないとも感じてしまう。 日本という文化の持つ異常性に気がつくときです。 もちろん万物は両面性です。 一概に日本文化がすべて悪いと切り捨てるわけではありません。 ただ、われわれのミステイクに対する恐怖心、再チャレンジが許される日本をつくろうとかつて失脚したぼくちゃん首相にさえ発言させてしまう日本文化の異常性にわれわれが気づくべきだ、と思うのです。 ここにご投稿いただいた方々の優しい、思いやりのある、生きる知恵に満ちたお気持ちを読み取りながらミシシッピ河のほとりのホテルのビジネスセンターにいて、滂沱の涙でパソコンの画面が見えません。 それはさながら悪代官の横暴に耐えている町民や、水戸黄門や遠山の金さんという偶像を作り上げてしまったかつての庶民の間の情けにもにた優しさのように思えます。 救いも逃げ場所もない島国、村社会の日本においては、武士の横暴以外に、庶民、村民同士のむごい村八分もあります。 やさしいわれわれが加害者になり、あわれな同胞をなぶり殺しにしてしまう残忍さもわれわれは持っているのです。 グループの長の推奨や口利きで決められたブランドのアコを購入しなかったものへの情け容赦ない嫌味やシカト。 われわれ自身のなかにある、極めて陰湿で暗いいじめの温床。 それを知っているが故のこびへつらい、必要以上な同化行為。 われわれの「優しさ」が必要無い、真にやさしい文化を作りたいとつくづく思います。 そんな人間に自己改革していきたい。 ある程度の過ちは多めに見られる、プラスの面をカウントできる聴衆でありたい。 失敗しても立ち上がってチャレンジする人の行為におかしいといって笑うのでは無く、むしろそんな行為に感動できる人間でありたい。 午前4時、時差で眠れないボケた頭がそんな危険な発言をさせてしまいました。 もう一回寝てこようっと。  

巨匠の言葉

 投稿者:カブトガニ  投稿日:2009年10月 9日(金)15時13分3秒
  戦前戦後を通じ当時日本一の人気を誇っていたアコーディオニスト「長内 端」さんがある時「アコーディオンは楽器としては未熟でマイナー、一番ミスしやすい楽器だ」と発言し、彼に憧れていた日本中のアコ愛好家からもパッシングを受けた事が有りました。

楽器が未熟かどうかはさておき、神様のような名手に見えていた彼の「一番ミスし易い楽器だ」といった言葉に、ミスしまくっていた私は心和む思いをしたのを覚えています。
 

いろんな考え方があるのは

 投稿者:オルガンサロン  投稿日:2009年10月 9日(金)11時27分53秒
  愉しく読んでいます。どんな楽器にしろ絶対間違わずに弾くことって難しく、完璧な演奏って何人いるのでしょうね。クラシックファンでなかった人たちをも巻き込んだあのフジコ.^ヘミングさんだって、毎回演奏内容(出来具合)が違っていて、その都度楽譜に書いていない音符を心で感じて演奏すると話していましたね。プロ ノンプロ 愛好家など立場でも考え方も違うかもしれませんが、ミスタッチをそう感じさせない演奏があるはずと思います。
私は一愛好家として、自分のミスタッチに原因があるのに、弾きなおしして歌や曲を中断しては絶対いけないと思うことです。ミスタッチをしてはいけないということと少々違いがあるのです。ミスタッチをしてしまった時の訓練(マインド)は、絶対必要なことです。ゆとりをもって愉しく演奏することが、ミスタッチをしてしまった時の大きなカバーする力になると思います。
 

ミスをする演奏者は舞台に立つ資格も無いのです

 投稿者:いんちきpくん  投稿日:2009年10月 9日(金)04時17分21秒
  キャーーたまげた!
まさしくそうなら、舞台とは、切腹場さながらだ!

実際のところ、間違えた直後でも、、、とか、もっともらしいことゆっときながら、ほんとは
『まちがってもそしらぬかおで平気で続ける練習』
しかやってないでたらめペテン師p君は、もう、さしづめ、ヘドロあつかいだ。

4歳のHunter Hayesは、今は何歳なんだろう?いまでもこんなかんじで、イカす演奏してるなら、かわいこちゃんわんさかあつまってくるにちがいない。
208236さん紹介の、ビデオも、もしあの彼が、このままおおきくなってんだったら、
とおもうと、こういうクラッシックの世界に対してケンカを売りたいゆーのは、よーわかるよーなきがする。

ここではなしかわるけど、海外、という、言葉使うこと出来るのは、ほんとに、日本の特権だ。ここは、ほんとに、ロシア、中国、どっこもかしこもつながってるし、アフリカ大陸からも、ゴムボートで、難民がやってくるくらい、あっちこっちがちかい。
ちなみに、ぼくのしってる、バングラディッシュ人は、貨物列車に、隠れ乗りして、ローマまできたそうです。

 ようするに海外の審査員ということは、イタリア人の、審査員も、含むゆーことにちがいないけど、イタリア人は、ふつうの会話でも、へいきで、きたないことば、ぶちかましてるから、ちょっときにいらんかったら、ボロクソゆーのは、よーわかるようなきがします。

そこでなにがいいたいかというと、
じつはぼく、子供の演奏見るの、ほんとはきらいなんです。
なんでかゆーと、子供の演奏みてたら、いつもかならず、子供って、子供の、エネルギーがあふれてるでしょ、このまま、大きくなっていけるかどうか、ものすごい心配になって、こわくなって、かなしくなるからです。

僕ねえ、まさしくそのとおりだとおもったことあるんですけど、むかーしむかし、誰が書いた本だったかも、おぼえてないんですが、日本語訳タイトルで、『ピアノへの道』(だったとおもう)という本よんだことあって、その中の一文だけおぼえてるんですが、その著者いわく、18さい未満の、演奏するものは、音楽ではない。。。。ということが、かいてありました。それって、僕は、ものすごーく、わかったんですよ、なにがいいたいのか。

子供の心が、あるとき、おとなになるときに、なにもかもが、かわってしまうときがくるんですよ。この著者のいいたいことは、ある時大人になって、さらになおかつ、子供の時の、こころ、こわさずに、音楽続けていけるかどうか、で、真の音楽家としての生命が、決まる、ということ、いいたかったんだとおもうのですが、まさしく僕、それ、同感なんですが、とりあえずだから、子供の演奏、見ると、心配でたまんなくなってきて、みるのこわいんですが、

まちがったら、どうしよう?まちがうのがそんなにこわいか?
こわいんやったら、ひかんかったらええやん。
そーやなくってひきたいねやろ!

大人になったらね、
やっぱり、子どもん時とは、何もかも違うもんが、心の中にあるから、もちろんまちがったら、ゆーこともそうやし、もっとハイレベルな心の葛藤が、あるわけで、。1台で人をひきつける事が出来るかも知れない、と、考えるのも、もしかしたら、大人の感覚、かんがえかたなのかもしれない。もちろん、p君号だけで、ひきつけたいのはやまやまだ。

ぼくが、たまにね、舞台にはなってへんけど、いちよう、橋とちごて、どっかで、ひく時ね、いっつも、じぶんにいいきかせることは、生演奏では、完璧は、そんざいしない、ゆーことです。それって、周りが、完璧やてゆーて、ちやほやしてるんとは、わけがちがって、ほんにんのなかでのはなしですよ。
ぼくのしってるかぎりでは、生演奏と、再生音楽の、ちがいを非常に、神経質に考えたグレングールドは、クラシック音楽録音で、、テープちょきちょきやって、ええとこばっかし、ひっつけたわけですよ!。

それかんがえたら、ペテン師pくんは、はい今から、えんそうやってや!
ゆーときに、まちごーてろーが、どーしよーが、そんなんは、おきゃくの、もとめてるだいじなこととちがうんや、とおもて、
そんなことより、今出す、いとつのおと、そしてそのつぎのひとつのおとに、全生命を、つたえることに、全エネルギーを、使うことが出来るわけです。
 

途中で弾きなおし

 投稿者:長野のkazu  投稿日:2009年10月 9日(金)01時10分26秒
  間違うこと想定して、その直後からでも、弾ける練習まえもってしとくことによって、まちがったとしても、 これは38年以上も前にピアノを習い始めて、初めての発表会の時から
言われていました。当たり前の事です。 なんだか懐かしくも思えて、、、、独奏ならまあ何だって有りですが、協奏曲とかはベースうんぬんではなくて、ミスをする演奏者は舞台に立つ資格も無いのです。こう言うクラッシックの世界に対して私はケンカを売りたいのです。 ミスは無く完璧な演奏だが、面白みや心が無いなどと海外の審査員などにボロクソ
言われた世代ですので、だったら1台で人をひきつける事が出来るかも知れないアコに
ハマッテいるのです。 完全独奏楽器だっ!なんて力んでは無いですが、クラッシックの
頭の固い連中に対しては、地下活動活動レジスタンスは募集中、、、、、ウソです
 

ほのぼのとした光景

 投稿者:208236  投稿日:2009年10月 8日(木)22時03分33秒
  とても、いいビデオです。
http://www.youtube.com/watch?v=Bd7zYNPOi0Q